Yは父がマシニングオペレーターで、伯父が部品加工会社を経営するといった、鉄鋼一家の中で育ったということもあり、大学では、ポリテクセンターの資格がとれる、職業能力開発大学校の電子工学部で学んだ。
もとは技術として新卒で入社した。就職活動の時に最初の会社説明会で、小玉社長の話しを聞くことができたことが、大きなポイントになった。
製品や仕事に自信を持ち「コダマが製造業を変える!」という社長の話しは、インパクトがあった。家族や親戚が関わっているだけに、他の大学生より理解し興味深く感じたのだ。
自動車の設計に関係する会社など、何件か他社も面接を受けていたが、一番最初に内定をもらったのは、コダマコーポレーションだった。そのスピード感がコダマを選んだ要因のひとつでもあった。
技術部で3年が経った時にYに試練が訪れた。病気で長期入院をすることになり休職を余儀なくされたのだ。広島の実家に戻り療養をすることになった。
ところが、休職中も会社との繋がりは密で、社長直々に連絡をもらったり、大阪営業所の上司や技術部の先輩からは広島への出張の際には連絡が来て、会って食事に誘ってもらったりした。
「とてもお世話になりました」とYは当時を振り返る。その流れもあって病状が回復してきたころ、コダマに広島や岡山での仕事が増えて来たということから、社長から「営業として復帰しないか」という言葉をかけられた時、喜んで受けることにさほど迷うことはなかった。最初は技術職として、次は営業職としていわば2回目の入社となった。
技術部時代にも営業に近い仕事を兼ねていた。そのころ既に営業が仕事をコントロールするところだと感じていた。ベンチマーカーという営業支援をしていた関係で、営業と一緒に仕事をする機会も多く、コダマの営業については、熟知していた。
「後は、度胸だけでした」とYはこともなげに言う。
担当した中国・四国エリアは、本社からも遠く大阪営業所の遠隔地ということもあり、コダマがなかなか力を入れて営業ができていなかったエリアだった。Yが広島では、地元出身ということもあり、お客様に受け入れていただきやすく、新規のお客様が多くなっていった。地域性と地元の繋がりが大いに役に立った。
コダマの製品が優れていることは承知していたので、どの会社に営業に行けば、喜んでいただけるか、効果が出るのかが分かっていた。Yには最初の段階からストーリーが見えていたのだ。
今から思うと、このように状況を作り上げて行けるだろうということも社長の想定内だったかも知れないとYは述懐する。
お客様としては、必要性を感じていても、ソフトウェアは無形商材なので不安な部分も多く、なかなか踏み出せないといった要因が大きい。だからこそ信頼関係が重要になる。
その部分を大切に、「なにか心配事がある場合は、私がすぐに伺います」と常に安心感を表現し、信頼感を積み上げていった。
ひたすら、自分の求めるものを追いかけようとすると、自ずと行動が一致してくる。つまり、お客様目線で、一所懸命動けば、コダマの理念「最高のサービス」と一致するということだ。
お客様との交渉の場では、即答を求められることも多い。値段交渉の場面でも、決裁が通るかどうかの瀬戸際を見極めたり、同金額でもサービスの部分が問題だったり、その交渉の決め所が最初は難しかったが、場数を踏んでいくうちに、その感覚が身に付いて来る。
今は、「営業という仕事が面白い」とYは言う。お客様との交渉のタイミングや値段など、様々なことがコントロールできるようになった。もちろん技術部や内外の様々な方々の支援なくしては成立はしないということもわかっている。責任もあるが、自分自身で物事を進められるということに限りなく魅力を感じている。